何でもある人たち
ウォルロ村の高台に、不審者が現れるようになった。それはいつごろからだったか、ニードは既に忘れてしまった。
不審者は、滝付近の高台にいた。そのまま立っていた。じっと空を見ていた。それだけだった。
何をするでもない。村の者に危害を加えるでも、何かを得るでも。寝るでも食べるでも。
ニードは、その不審者に幾度も接触していた。それは確かに、彼が昔から抱いていたような、「村を守る」という義務感からくる行動ではあった。だがしかし、彼には、昔のようには、最初から異端者に攻撃的な態度をとることはしなかった。
話を聞く限りでは、不審者の彼はどうやらトラヴィアを待っているらしい。しかし彼は、最低でも数週間ほどこの場にいたのに、未だ待ち人に会えていないのだ。
トラヴィアを待っている。ニードの覚えている限りの不審者の彼との会話では、彼はこの一点張りだった。目的は尚も達成されない。
トラヴィアは頻繁にウォルロ村を訪れていた。それなのに実に不思議なことに、不審者の彼は、数週間はこの村に滞在しているはずの彼は、そのトラヴィアにまだ会えていないのだった。
おかしい。ニードは思った。
そしてその感覚を彼は知っていた。それはかつて、彼が、村にある像を媒介として抱いたものと同じ類のものだ。
知らないことを知っている。知っていることを知らない。記憶に矛盾が生じてこれからの行動が縛られる。
本当は、ニードは不審者と話したことなんてなかった。会話がなければ事情を聞いたこともなかった。義務感から不審者に接触したなんて、そんなの、嘘っぱちだ。
なのにすべてが「そういうこと」になっている。それは「そういうもの」だった。誰も疑問に思わない。朝起きればかつての今日が昨日になり、新しい今日になるのはかつての明日だ。
今起きたことは、いずれは過去の思い出になる。その「思い出」いわば「記憶」として、ニードは、不審者に話かけた経験を持っていた。
では、いったいどのようにしてニードが不審者に話しかけ、どのようなことを話したのかという段階に疑問が及べば、現れるのは薄く立ちこめる靄のみ。けれどもそれは怪しい臭いを放つものなんかではなく、昨日食べた夕飯がしょっちゅう思い出せなくなるような、その程度の白さだった。
分からない。おかしいことだけは分かる。
しかたがないのでニードは今これからを見ることにした。同じことは、二度、体験済みである。そのときもそうした。
一度目、あの謎の像の名前の変化に疑問を抱いたときには、周囲に訴えかけた。誰も気にも留めてくれなかったが。
二度目、あの像の名前の消失に気がついたときには、トラヴィアとその疑問を共有していた。
彼女、トラヴィアだけは、ニードのこの「何かがおかしいと感じる気持ち」を分かってくれる。唯一の存在だった。
像に刻まれていた名前は、トラヴィアではなくイザヤールだったはずだ。それを言うと、トラヴィアはただ頷いて、そうだねと言う。
像にはかつて、トラヴィアという名前が刻まれていたはずだ。それを言ったら、トラヴィアは涙ながらに何度も頷いた。
(どんなときだってニードを頼ってくれなかったトラヴィアが、初めて、彼の腕の中で泣いた。頼りにしてくれた。だから実は、彼にとって、滝を間近に臨むあの像の付近は、トラヴィアとの思い出の場所だったりもする、のだ。
大切な村を、その中でも特に大切な場所を、見知らぬ人に侵されている。そんな気もした。
だからこそニードは、「義務感により不審者に接触した」という事実を、かえって何ら違和感なく飲み込むことができるのだ。絶対に自分ならそうする、実際そうしたことになっている。
もし、もしもだ。もしも、あの不審者の現れたのが今このときからだったとして、ニードが彼に対応するか否かをこれから自らの意志で選ぶことができた場合でも、ニードは断言することができた。絶対に、村を守るために自分は彼に接触する。)
しかし、ではこの像が、いったい何であったのか。そこまで突っ込んでみると、トラヴィアはそこで、ただ、悲しそうに笑うのだった。何も言わない。だから、何も聞けない。
ニード自身に白い靄がかかっていたのだ。知っていたはずのことを忘れていた。きっと自分は、この像の正体を知っていたはずだ。それをトラヴィアと話したはずだ。なのに何も、思い出せない!
三度目も、ニードはこれまでと同様にすることにした。皆が当然と思っていること、それで済ませていることを、疑問をもってして斬りつける。皆はそんなニードを常に愚かだと見なしてきたが、今このときこそはそんなことは言わせない。
声をかけると不審者は振り返った。 彼は坊主頭だった。引き結ばれた口元も、力強い瞳も、生真面目でストイックな印象をニードに与える。 そして思った。 「(トラヴィアに似てる──…)」 顔が、ではない。性別も体格も背丈も年齢も表情も、何から何まで違う。だが、目に見えるものこそ異なれど、それらの根本となっている、心の奥にたぎるもの──それが、きっと同じ類のものなのだろう。ニードはそう結論付けた。 「おまえは………」 男は驚いた表情をした。それを見てニードは、ほらやっぱり、と思う。 この驚き方は、何度も接触をはかっている者に対するものではない。やっぱり自分は、彼とは初対面なのだ! その証拠に、ニードが名乗りもせずに無粋にも目の前の男の名前を尋ねたとき、彼は何らためらわずに答えた。これが、いきさつを話したことのある者に対してすることか。 しかし男の口から発せられた名前には、ニード自身がたいそう驚いた。 「イザヤールだ。」 イザヤール。その名前をニードは知っている。 「イザヤールだって?」 「ああ、そうだ。」 驚きを露わにするニードに対し、男、イザヤールは至って冷静である。まるで、ニードが驚くことを知っていた、とでも言いたげだ。 ニードは心中で唸る。予想だにしなかった驚きによって、彼は出鼻を挫かれた気分だった。 「アンタは、何のためにここに立ってるんだよ。村のみんなが怯えてんだ、メーワクしてんだ。目的がないんなら出てってもらおうか。」 何とかして作り出した言葉も、相手によって簡単に返されてしまう。 「村のみんな、か……。相変わらずだな、きみは。」 「ハァ?」 「だが、変わったところもある。噂に聞いたよ、宿屋はうまくいっているんだそうだな。立派になったな。」 そう、ニードは、イザヤールの名前を知っていた。像にかつて書かれていたから、だけではない。トラヴィアの口から、その名前が発せられるのを、聞いたことがあるのだ。それも、何度も、何度も。 それこそ本当に、昨日の夕飯が思い出せないかのように、いつどこでどのようにか、はあまり覚えていない。寝言でだったかもしれないし、彼女の落ち込んだときの心情の吐露で、だったかもしれない。それでもニードは、イザヤールというその名前とその存在だけは知っていた。 そして、ニードがその名前を聞いたとき、ことさらに驚いた理由はここにある。イザヤールは既に死んでいるはずなのだ。 いや、死んだ……? そこでニードは自分で自分に問いかけた。死んだはずだったのか? 死んでいなかったのか? また、記憶に白い靄がかかる。真実は昨日の夕飯のごとく彼方にかすむ。 それでもニードは、トラヴィアの悲しみだけは忘れなかった。どうがんばっても掬い上げられなかった彼女の悲しみ──それは、イザヤールの**(ここに当てはめるべき単語はいくら探しても出てこなかった)によるものであったはずだ。 靄が、立ちこめる。ニードはその中で途方に暮れた。最終的に、粘りの弱い彼はさまようことをやめ──目の前の現実だけを見た。イザヤールという男性が居て、生きているという現実を。 ニードは彼に尋ねた。 「……アンタは、トラヴィアを待ってるのか?」 「トラヴィアか……きみは、トラヴィアに大変よくしてくれたらしいな。」 しかし返ってきたのはあまりに見当外れな内容。イザヤールは、表情をいっそう険しくするニードに向けて、あろうことかほほえみかけた。 「礼を言うよ、ありがとう。あれが耐え抜くことができたのは、紛れもなく、きみのおかげだ。きみがトラヴィアの戦うのを支えてくれた。」 「……何だって…?」 言われているのは確かに礼だったが、ニードはついにそれでかちんときてしまった。その偉そうな物言いと、トラヴィアの扱いにだ。 「トラヴィアが、耐えることができた、だって? んなわけあるか、ばかやろう!」 ニードは怒鳴った。 「あいつはなあ、ずっと苦しんできたんだよ。それでも、しかたがないから戦ってただけなんだ。なのに、今更現れて、偉そうに! 本来なら、てめーが支えなきゃいけなかったんだろうが!」 何も知らないはずなのに、なぜかすらすらと言葉が出てきていた。そんな気がしていたのだ。そしてその言葉はどうやら的を得ていたらしい、イザヤールは目に見えて表情をつらそうなものに変える。 「………そうだな、返す言葉もない。」 「分かってんだったら、さっさと迎えに行ってやれよ!」 「言うとおりだ。だが、」 そしてここでイザヤールは、初めてニードを納得させることを言った。 「私はトラヴィアの居場所を知らない。」 「あ。」 少しだけ間が空く。次に発言したのはニードだ。 「何となく分かるんじゃねーの? 勘とか。」 「無理だ。きみはどうだ、分かるか?」 「………無理だ。」 悔しいながら、ニードもトラヴィアを待つ立場である。 イザヤールはここで一度ニードから視線を外した。間近の天使像を見上げ、視線をさらに上げて滝を通りこし、空をその目に映す。 「だが、これだけは分かる。トラヴィアはもうすぐ、ここに来るだろう……」 「……そりゃ、いつかは来るだろーよ。何たって、ウォルロはあいつの故郷だからな!」 「……故郷?」 イザヤールはニードに顔を向けて目を丸くした。その反応にニードは得意げになって言う。 「ああそうだ。あいつはこの村が大好きなんだ、あとオレの宿屋がな。 だからトラヴィアは、旅が一区切りしたら絶対にここに帰ってくるんだよ。」 「………そうか。それはよかった。」 イザヤールは笑うのでもなく目を細める。見ると、彼の着ている衣服には見覚えがあった。トラヴィアが最初この村にやって来たときに身に着けていたものと、どこか共通する点のあるデザインである。漂う雰囲気も似通っていた。 もしかしたら、いいやおそらく、彼はトラヴィアと同郷の者なのだろう。 「トラヴィアにもそのような場所ができたようで、本当によかった。私は安心した。 私がいなくとも、あれは、十分にやっていけるようになったのだな……」 尚も偉そうな物言いでも、ニードはもう最初ほど怒ったりはしない。 「何だよ、今からあいつに会うんだろ? その先からんなこと言ってんじゃねーよ!」 「…ニード……」 名前を呼ばれる矛盾に気付かずにニードは言った。 「ま、実際そのとおりだけどな。あいつにはこのオレが必要なんだ。」 「…………。」 「…………。」 ニードは言ったが、言いながら、自分で自分の首を締め付けてしまったような気になった。本当に自分は、彼女に必要とされているのだろうか。嫌われていないと断言することはできたが、実際好かれているのだろうかというと疑問である。 会話をすれば、至る所に秘密が隠れているのは明白で、核心を知らぬ間に突こうとすると確実に避けられる。肩どころか手と手が触れ合ったときなんか、あからさまに怯えたように避けられる。 腕に閉じこめて泣かせてしまったことだってあったし、夜一緒に星を見上げたことだってあった。それでも尚ニードが、トラヴィアに好かれていると断言することができないのは、これが理由だ。 ある一定の範囲において、絶対に避けられている。 短い間にひとしきり落ち込んだあとで、ニードは、ふいに当初の目的を思い出す。そうだ自分は、不審者を何とかするために来たのだった。 それなのにいつのまにか、彼に対して怒ったり、彼を哀れんだり、をしてしまっていた。これでは目的を失念してしまっている。いけない。ニードは反省した。 「……アンタはいったい、あいつの何なんだよ。」 ニードは問いかけた。彼自身としては当初の目的に沿って行動したつもりだったが、意識しないうちに、声の調子が柔らかいものになる。 「私か? 私はトラヴィアの、し──」 イザヤールは言いかけて淀んだ。そしてまた、先程トラヴィアを思いやっていたときと同様に、視線を上げて空を見る。 「……いや、何でもない。私はもう、あの子の何でもないんだ。」 「……ふーん。」 確かにその点は、ニードにもまるで予想がつかなかった。恋人というには年齢が離れすぎていたし(もしかしたら彼らはそれでもよかったのかもしれないが)、親子というにはその逆で、第一顔も似ていない。 彼女に勉強を教えた先生とか、父親代わりとか、そのあたりが一番近い気がした。けれどもニードは思うのだ、絶対にそれだけではない、と。 イザヤールの空を見る、それを通してトラヴィアを見る目が訴えている。その先にいる少女を、彼が、この上なく大切に思っていることを。
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