トラヴィア/イザヤール天の箱舟襲撃後ナザム村にて/※ちょっと痛い表現があります

弟子と師

 動くことのできない身体のままナザム村で迎える、幾度目かの夜。もう数えることは諦めた。
 トラヴィアは暗闇の中、何をするでもなく低い天井を見上げる。視力は翼と光輪を失った今でも良く、練られて密度の濃い闇の中でもはっきりと像を結ぶことができた。
 無言で首を回し、ベッド付近に置かれた荷物の一部を視界に映す。武器防具その他諸々旅に必要なものはほぼ村人に没収されてしまったが、下着等日用品の入った袋だけは、情け程度にトラヴィアの手元に残されていた。
 身体は動かない。だがトラヴィアは、それを動かした。
 半ば這うようにして単にベッドからずり落ち、荷物に手を伸ばす。痛みに顔をしかめることもせず、力をうまく入れることができないながらに袋の中をあさる。薬草や衣類など、比較的柔らかい感触の奥に目的のものはあった。指先がそれにぶつかる。固い感触をしっかり確かめて、柄を握って引きずり出した。
 先端部を口にくわえて鞘を引き抜く。護身用にするにも心もとない、ちっぽけな刃は暗闇の中で鈍く光を放った。そのようにトラヴィアには見えた。
 武器にする剣とは別に、常時携帯している小振りのナイフである。
 まるでそれに縋るように、トラヴィアはちっぽけな刃を抱き寄せる。そして目を閉じてひと時の無に我を任せた。

 ――「女神の果実」収集任務完了後、天の箱舟内部にて、師イザヤールの襲撃を受ける。
 トラヴィアがイザヤールと過ごした日々は、長命の天使にとってはほんの一呼吸に満たない程の短い期間ではあるが、トラヴィアにとってはそれまでの生のほぼ全てといってもいい程に重さを持っていた。それだけの価値ある時間の中、彼女は師に対し怒りも悲しみも喜びも、たとえ表面には出さないまでも天使の感じ得るほぼ全ての気持ちを抱いてきたものだったが、その中でもただひとつ抱かなかった気持ちがある。
 それは落胆である。人間界の言葉に訳すのなら、がっかり、とか、そういう類の気持ち。
 トラヴィアは生まれて初めて師イザヤールに対し、「がっかりした」、落胆を覚えたのだった。
 彼女は自身のイザヤールに対する理解について、誇りにも似た自信を抱いている。師のことなら何でも知っている。そう胸を張ることができていた。
 だから、深い考えを持つ彼が、天使界の過去と現状と未来とを憂えていることも知っていた。その慮りや、いつか何か天使界に革命を起こさんばかりであるとも思っていた。
 しかしその、ある種崇拝にも似た予想は、予想しえない程の最悪の形の的を射てしまった。それが、天使イザヤールの裏切り。
 トラヴィアへの、天使全員への、天使界への、神への、裏切りだ。
 もう既に彼女には、師のことが誰よりも理解できないでいた。彼の考えは深すぎて、もはや手の届かない領域に達してしまっている。トラヴィアはただイザヤールの優れたことだけはよく知っていたために、その印象はより濃さを増してしまった。
 トラヴィアは悲しかった。
 イザヤールが、自身の手の届かないところへ行ってしまったことがでない。イザヤールが、彼女に刃を向けたことがでない。
 「“弟子として”“師を”討たねばならぬ」ことが、この上なく悲しかった。
 道を違えた師を止めるのは、師に引導を渡すのは弟子の役目である。師が弟子に道を教える限りは、その道を歩くのは師と弟子の両人でなければならない。弟子は師の引いた道を歩むからこそ、その道を師が違えたとき、全力で師を止めねばならないのだ。そこに、下級天使と上級天使の間に存在する絶対的な理は関係ない。
 ただ、一人の“弟子”として、“師”を討たねばならない。そのことが、トラヴィアには、この上なく悲しかった。
 だが涙などは出てこない。とうにそんなものの存在は失念した。
 そしてこの期に及んで、翼も光輪も失くし絶望の縁に立たされ、それでも天使としての責務を果たすことを強いられ、単身人間界で戦い続け、たった一人の師を最も大きな心の支えにしてきた天使の、ただ純粋に師の襲撃を悲しむような心の部分は既に麻痺しきっている。
 ただ、彼女の心に生まれた悲しみは、様々な他の種類の悲しみから逃げるようにして、「師を討たねばならぬ」という使命に収束する。
 ただその使命だけが彼女の心を支えた。そう、かつて、果実を集めるという使命に心燃やし身をゆだねていたあのときのように。
 トラヴィアは常に使命をもって生きてきた。今はもう遠い昔は、天使としての責務を果たすこと、イザヤールの弟子としてふるまうこと、守護天使としてウォルロ村を見守ること。ウォルロを出た直後は、天使界に戻ること。そして一度故郷に戻ってからは、女神の果実を集め、翼も光輪もなくとも、天使界に貢献した立派な天使として、師イザヤールに再び見えること。
 彼女の中に“使命”が存在しなかったのは、ほんのひと時だけのことである。人間界に落下し今現在と同じように大怪我を負い、リッカに養われていたあのとき。あのときと今とで違うのは、トラヴィアの心の中に、確かな“使命”があるか否か、それだけだ。
 もうあのときのように、心を空っぽにし、無意味に日々を過ごすのは絶対に御免だ。
 それは、最愛の人のいない事実に悲しみ心奮わせるよりも耐え難いことだ。
 すぐにでも傷を治して、トラヴィアは再び立たねばならない。少しでも早く進んで、手がかりを見つけて、そして、最愛の人をこの手で――

 トラヴィアは胸に抱いたナイフをしっかりと握り締めた。そして自身の心に向かって呼びかける。
 これは無意味な行為などではない。私はこの痛みを心に焼き付け、そしてそれを前に進む糧とするのだ。
 一度、二度、深くゆっくりと深呼吸。それはとても穏やかなものとはいえず、野生の獣が獲物を前にしたときにするような、非常に物騒で本能的なものとなってしまったが、だが、それでも数拍の猶予を彼女に与えるには十分だった。
 その猶予を経て、トラヴィアは何らためらうことなく、握り締めたナイフを、ろくに力の入らない手で振りかぶって、イザヤールに作られた傷に突き刺した。ぐっと奥に押し込んだ後は無我夢中になってすぐにそれを引き抜き、それからは、何度も、何度も、何度も、同じ場所にナイフを突き立てる。鈍い色の刃はたちどころに赤に染まり、刃の抜き差しを繰り返す度に濁った血液が飛んだ。
 一度緊張を切らして我を取り戻せば、とたんに、痛みは傷口だけでなく身体全体を突き上げ、脳天にまで達する。ほとばしるはずの咆哮は喉ですり潰し、口内の肉を噛んで余波にも耐える。
 ――こんな痛みが、なんだ!
 イザヤールさまの抱えてきた悩みに比べれば、この程度の痛みなど、何てことはない。
 あの人はきっと悩んでいたのだ。きっと、きっと、きっと。悩んでいたのだ。
 ただ、私が、その悩みを受け止めるにも及ばない、不能な弟子であっただけなのだ。
 だから、だから私は、師を討たねばならない。天使イザヤールの、たった一人の弟子として。――
 痛みに耐えそれを明日への糧とするトラヴィアの目尻に、涙が浮かんだ。それは壮絶な痛みからくる生理的なものなのか、それとも別の要因によるものなのか、それを判断するだけの余裕は彼女にはない。
 トラヴィアはナイフを握る手を痙攣させてしまい、それを取り落とす。手を這わせて刃を探そうとするものの、無意味に震えるばかりで思うようにそれは動かなかった。
 他になす術もなく、トラヴィアは呪文の詠唱を始める。身体に負ったこの程度の傷は、彼女の使う回復呪文でも治すことができる。だが、師の傷は――









 ずっと書きたかった!話そのいち。他にもいくつかあります。
 うーん。この期に及んで何を語ろうか。なんというか、トラヴィアは本当にバカな子ですね。
 ちなみにこの話にちなんで、サンディがトラヴィアを「…病気ね」と評して、それと同時にイザヤールが彼女を弟子にとった理由を何となく悟る、という逸話があります。それもまた今度書きます。
 なんだかうちのサンディは、あんまりギャルっぽくないです。あの独特のかわいさを出すのってむずかしいですね。

 ナザム村では、装備を売ってもらえないことに泣きました。ひどい!みんな冷たい!
 ティルはほんとうに良い子ですね。

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