ニード、トラヴィア/「天使である私の死」直後からの話

process.1

 ひとまずニードに引っ付きっぱなしのトラヴィアを引っ張って、なんとか、宿屋の一室に押し込んだ。
 行かないで行かないでとまるで子供のようにせがむ彼女はまだ心配だったが、仮にもひとつの宿屋を担う人間として、彼女ばかりに付きっ切りになるわけにもいかない。
 「すぐに戻るからな」と約束して部屋を出て、トラヴィアのためだけに作ったトラヴィアのためだけの夕食を手に部屋の前に戻ったときには、すっかり夜も更けてしまっていた。優先すべきはまず正規の客だったし(今日は、トラヴィアからは宿代は受け取っていない。ニードが半ば無理やりに連れ込んだようなものだったから)、夕食ついでにゆっくり話したかったのだ。そういう意図あっての遅れではあったが、結果、ずいぶんと長いことトラヴィアを一人ぼっちにしてしまった。だいじょうぶだったろうか。
 「すぐに」戻ることなんてできずに待たせてしまった。ものすごく申し訳ない。だからニードはノックをためらった。
 ためらったのだけれども、そのまま立ち尽くすわけにもいかない。
 手の甲で二回、扉を叩いて音を出す。コンコン。
「…おーい、トラヴィアー。メシもって来たぞー。」
 返事がない。もう一度ノックする。コンコン。呼びかけももう一度やってみたが、やはり返事がない。
「トラヴィア…? 入るぞ。」
 今日のトラヴィアはなんだか様子が変だったので、このときニードの頭にはあまりよくない想像が浮かんだ。まさかほんとうにそんなことにはならないでくれよ…と、常日頃彼がトラヴィアの冒険譚を聞いたときに感じたような冗談めいた不信を胸に貼り付け、おそるおそる、ニードは扉を開けた。
 そして、部屋のベッドにシーツもかけずに横たわるトラヴィアを目にしたとき、心臓が飛び出さんばかりにニードは驚いた。静かに驚いた。
「トラヴィア!?」
 手にしたトレイは机に置いて、ベッドに駆け寄る。トラヴィアはぴくりとも動かなかった。だが、ニードがそのほっぺに触ったらほのかに熱を持っていた。
 すると彼の目には、要するに死んだように映っていた少女も、なんだかちゃんと呼吸をしているように見えてくる。実際きちんとトラヴィアの胸は、呼吸に合わせてわずかに動いていた。
「なんだよ、寝てるだけか……」
 おどろかせるなよ、とぼやきながらも、ニードはなんだかんだ言って安心して胸を撫で下ろす。片方の腕を枕にし、横を向いて、単に眠っているだけの少女の表情は穏やかに見えた。
 ベッドの隣に腰を降ろして、寝る少女に目線を合わせて、ニードはトラヴィアをじっと見つめる。こんな至近距離で彼女を見るのは初めてだった。
「(…こいつも、こうやっておとなしくしてりゃ、かわいいのになあー。)」
 そんな思考が頭に浮かぶ。このときのニードは仕事に疲れてちょっと頭がぼーっとしていたし、昼間のトラヴィアのあの切羽詰った様子を目の当たりにしていたので、このような思考を咎める部分は既に彼の中には残っていなかった。
 まぶたは静かに下ろされていて、よく見ればまつげの長いことが分かる。肩のあたりで切り揃えられたまっすぐな髪の毛が僅かに顔にかかっていたので、そっと指で触れてそれをのける。ゆたかに肉付いたほっぺや唇は柔らかそうで(実際ほっぺは物凄く柔らかかった、唇は知らないけれど)、特に唇なんかは健康的に赤に色づいている。トラヴィアの肌は砂漠育ちというわけでもないのに(そんな話は聞いたことがなかった)褐色で、ふつうの女性だったら短所と言って気にするだろうところを、ニードにとってはそれすらも彼女の魅力のひとつに思われた。
 ニードはこのとき初めて、トラヴィアという「女性」を意識していた。
 いつもほんのわずかにしか喜怒哀楽を映さなかった表情が、からだいっぱいの不安、心細さに満たされていた。ニード、と呼ぶ声のなんとか弱かったことを、ニードは忘れられない。
 不定期に宿にやって来ては、真偽の定かではない(トラヴィアが嘘をつくとはとうてい思えなかったが、それらはあまりにも現実離れしすぎていた)冒険譚を語るばかりだった友人の、あまりにも儚い姿。
 それを初めて目にした彼は、なんとしてでも彼女を守ってやらねば、自分が力になってやらねば、――とか何とか、このとき確かに考えていたのであった。
「(おまえが何者か、とか、何やってたのか、とか、何がそんなに辛かったのか、とか、気になることはたくさんあるんだけどな。でも、そういうのは、やっぱどーでもいいや。
 トラヴィア。どうやったらおまえが元気になれる……?)」
 ニードは柄にもなく、こんなことを、本気で、心の底から、誠実に、考えていたのであった。
 そしてそのとき、トラヴィアが目を覚ました。何の前触れもなくとうとつに彼女の瞼が持ち上がって、寝起きだというに妙にぱっちりした黒色の目が、ニードの彼女をじっと見つめる目としっかり合って、
「――きゃあああっ!?」
「うわあっ!?」
 心底驚いたように、尋常でない速度でトラヴィアは身体を起こして後ずさった。ニードもかなりびっくりした。
「にっ、ニード…? なんで、あなたが、ここに…っ?」
「なんでっておまえっ、ここはオレの宿だからだよ!」
「ああ……そっか、私はニードに……」
 声を小さく呟くものに変えて、トラヴィアは自身の記憶を確かめているようだった。それがなんと、突然ニードに詰め寄ってきた。ニードはこれにもかなりびっくりした。
「そう、ニードっ! 私はあなたを待っていたら、いつのまにか寝てしまっていたの……よかった、もう帰って来てはくれないかと思った…」
「んなわけねーだろ。ここはいちおう、オレの宿なんだからさあ…」
 寂しげにニードに訴えるトラヴィア。実際こんな場面に遭遇したことのない彼には、そんな彼女に対してこんな気の利かない言葉を言うしかできなかった。
 しかし結局トラヴィアもこんな場面に慣れてはいなかったので、そんなニードの不甲斐なさもどうでもいい。彼女にはニードが無事戻って来てくれたことが何よりも嬉しかった。
 嬉しかったところで、ひとつ、疑問が浮かぶ。
「……ニードは、もしかして、私をずっと見ていたの…?」
「………ああ、見てたよ。しばらくな!」
 正直にニードは答えたが、さすがに「ずっと」は恥ずかしかったので、「しばらく」を念を押してアピールしておいた。
「そう……。」
「んだよ、それがどうかしたのかよ?」
「私は、今、目を覚ましたの。あなたが来ていたことに気が付かなかった。」
「そんなの、寝てたんだから当然だろ。」
 トラヴィアは「ううん」と首を振る。動きに合わせて、まっすぐな髪がきれいに揺れる。そんなさりげない動作にニードは、こんなときだというのに思いもがけずどきっとした。
「私は、眠っていたって、近くに人が来たらすぐに気付くことができた。気付いて、目を覚まして、すぐに行動することができていたの。できていたのに…」
「……なんだ、それ。」
 ニードは即座にはなんと言って返したらよいのかが分からなかった。とりあえずそんな言葉が口をついて出る。
 トラヴィアがすさまじいことをあまりにもあっさりと言ってのけてしまったので、ニードには、それを、どのように解釈するべきかが分からなかったのだ。眠っていても、すぐに人の存在に気付くことができるだって? いったいどれだけ、周囲を警戒しているんだか。
 けれどもトラヴィアはトラヴィアでいたって真剣に考えているふうで、ニード自身そんなまじめで誠実な彼女の支えになってやりたいとこのときは強く思っていたから、彼はいっしょうけんめいに考えた。
「じゃあ、今は警戒することなく眠れてたってことだろ。いいことじゃねーか。気ぃ張るまんまじゃ、疲れちまうだろ?」
「…………。」
「おまえがここで、この村で安心できてたんなら、オレは嬉しい。」
 言いながらニードは、まるで、自分が自分ではないような気がしていた。こんなかっこつけたことを女性に向かって口走るなんて、少し前だったら考えもしなかったことだ。
 誰にともなく恥ずかしかったので、誰にともなく心の中で言い訳した。そう、これは、元気のないトラヴィアを元気付けるため!
「……そっか。ニードが嬉しいなら、私も嬉しい。」
 トラヴィアは力なく笑った。今までに見ないような笑い方だった。
 それはあまりにも力なさ過ぎた。ほんの少し前に見たときは全く笑顔を見せてはくれなかったのだから、それを思えばまだいいものなのだが。しかしその表情からは無理をしている様子がありありと読み取れた。それがニードには痛々しかった。
 滝の近くの守護天使像の前で、ニードの胸で涙を流したトラヴィア。そして今、普段しているはずの警戒もおろそかに、本人も自覚しない間に眠ってしまうほど、疲れきっているトラヴィア。
 そんな彼女を見ていたら、ニードにはひとつ、心に決めることがあった。
 トラヴィアはきっと、疲れてしまったのだろう。長い間ずっと、旅をしてきて。
「――よし決めた。トラヴィア、おまえうち来い。」
 だったら休めばいい。ニードはそう思ったのでこう言った。
「えっ?」
 案の定トラヴィアは驚き目を丸くする。
「オレんちだよ。この宿屋じゃなくて、ウォルロ村の村長の息子のニードさまの家。」
「……どうして…?」
「宿屋にずっと泊まらせるわけにはいかねーだろ? ……いや、やっぱいいや、細かいことは気にすんな! とにかく来い、んで休め。好きなだけ休め。」
「…別に、私は…」
「いいから来い!」
 休む必要なんかない。そう言ってしまいそうなトラヴィアに皆まで言わせずに、ニードはさっさと行動に出る。立ち上がってトラヴィアの手を引いて、トラヴィアの数少ない私物と旅の荷物と剣を持って、机の上に放置しっ放しの夕食に一時の別れを告げて(またあとで取りに来よう)、部屋を出る。
 扉を過ぎた辺りでトラヴィアが明確に抵抗し始めたので、ニードは彼女の背中側に回ってぐいぐい押した。悲しいかなきっと、トラヴィアが本気で抵抗すればニードなんて一発でおだぶつだろうから、おそらく彼女にはそうする気は今はない。
「あ、あの、ニード……」
 それは押せば押しきれるということだ。ニードはトラヴィアの背を押して進んで、なんだかちょっとそれでは絵にならなかったのでやっぱり手を取って引っ張って、自宅に帰った。
「オヤジ! 今日からトラヴィアが住むことになったから。」
 言葉を投げかけながら、一階の父親のいる部屋の横を通り過ぎる。もう階段に足をかけた辺りで父親の何を言っているかよく分からない声が聞こえたが、意に介さず二階に上がった。ニードも今はきちんと働いている身、文句は誰にも言わせない。
 二階の自室に入ると幼い妹はまだ起きていた。眠たげな中がんばって夜更かししていたようだったのが、まずニード、次にトラヴィアの登場でとたんにぱっちり目を覚ましてしまう。お兄ちゃん、と呼びかけた口が固まった。
「……旅芸人さん!?」
 妹の驚きをよそに、ニードはてきぱきと事を進めていく。主にベッドの上にトラヴィアの私物を置いて私物を置いて剣を脇に立てかけた。
「こいつ、今日からここに寝泊りすっから。ベッドはオレの使えばいいだろ。オレのいない間は、トラヴィアのことよろしく頼んだぞ。」
「よろしく、って、……ええっ…? じゃあおにいちゃんは? おにいちゃんはどうするの?」
「宿屋に泊まれば済むだろ。もともと、最近はあっちにかかりっきりだったから……ちょうどいいくらいだ。
 トラヴィア、」
 ここで突然、ニードがトラヴィアに振り返る。トラヴィアの目を見て声を潜めて言った。
「おまえのことだから、信用して言う。頼むから、ベッドの下は見ないでくれ。」
「…………。」
 あまりに内容が突拍子もなかったために、トラヴィアには即座になんと言って返したらよいものかが判断できなかった。
 トラヴィアがぽかんとしている間にも、ニードはてきぱきと進めるのをやめない。彼はまず自身のベッドを指差して言った。
「ベッドはこれを使えばいい。細かいことは妹に聞いてくれ。」
「…え、あの…」
「で、よかったら妹と遊んでやってくれ。それにも飽きてやることなくなったら、昔リッカんとこで暮らしてたときみたいに、てきとーに村ん中でも散歩してりゃいーから。」
「…あの……」
「食事は……まあ、細かいことは決めてないが、何とかする。まちがっても村の外に出て調達しよう、とか考えるなよ。」
 そこまで言ってニードは、ふと思い出したように付け加えた。彼はトラヴィアの肩をがっしと掴んで、彼女の目を見て言った。
「…ぜったいに、黙ってどっか行ったりすんなよ。心配だから!」
 気持ちを正直に暴露してやるのは、相手がトラヴィアだからだ。彼女には複雑な小細工は一切通用しない。
 トラヴィアはいい加減わけがわからない気持ちが飽和して、ほんとうに何をどうしたらよいのか分からないでいた。とりあえずニードがしろするなと言うことを頷いて聞き、それには精一杯従おうと決意するのみである。
 しかしついには頼みの綱のニードも去ってしまった。彼には宿屋の仕事があるのだ。トラヴィアはしばらくは呆然とその場に立ち尽くしていたが、そのうちに「休め」と言ったニードの言葉を思い出して、「ベッドはこれを使えばいい」と言った同じくニードの言葉も思い出したので、最終的にはニードのベッドにぼふんと座った。
 すると、ニードの妹と目が合う。彼女はおずおずとトラヴィアに切り出した。
「……あの、旅芸人さん…」
「………なに?」
 図らずも応える声は強張ったものとなる。トラヴィアは人付き合いが苦手だ。ニードの妹とはたびたび会話したことはあったが、こうして面と向かって2人きりで改めて話をするのは初めてだった。
「おにいちゃん、どうかしたの?」
「どうかしたの、って……」
「忙しくなって、私ともぜんぜん遊んでくれなくなって、夜おそく帰って来るようになったの。そしたら、今度は旅芸人さんを連れて来た。旅芸人さんが、ここに住むの?」
「………そういうことに、なるみたいですね。」
「おにいちゃん……」
 トラヴィアは神妙な面持ちで頷くと、ニードの妹はそう呟いて悩ましげにスカートの裾を握った。そして俯く。
 こちこちこちと時計の針が動くのが分かるほどの静寂に、部屋はしばし包まれる。どれくらいそうしていたのかはトラヴィアには興味がなかったので分からないが、不意にニードの妹が顔を上げて言った。
「……おにいちゃんがおとうさんに怒られなくなって、あんなおにいちゃん、おにいちゃんじゃない! って、思ってたの。でも、今のおにいちゃんは、おにいちゃんだった。」
「…………。」
「眠くなったら、おにいちゃんのベッドで眠ればいいとおもうよ。私ももう寝るね。それじゃあ、おやすみなさい。」
 幼い子供に語ることができるのは、たったそれだけだった。トラヴィアはするともなしに「はい」と返事をして頷いて、それでもまだしばらくはベッドに座ったままの体勢を維持する。
 もう百を越える年数を生きているトラヴィアにも、今のこの気持ちをどう言葉にすればよいのかが分からない。それが親しくもない他人のものとなれば尚更だった。
 部屋の中の2人の心にどのような変化があったにしても、ニードの妹はベッドに寝転がりシーツにくるまったし、トラヴィアも鎧を外して寝ることにした。
 部屋の灯りが落とされ、暗くなる。時間が経過すれば朝はくる。









 もうちょっと続きます。
 ニードに、「ベッドの下は見るな」って言わせたかったんです!
 あと、彼のベッドに寝るトラヴィアも書きたかった……。満足。

 ただこのへん、トラヴィアのは長ったらしくなるのでカットしたんですけど、今回はお互いがお互いを意識し始める、っていうところも描きたかったんです。
 ベッドで寝るときに、昼間からの自分を思い返してどきどきどき……みたいな。
 まあどうせ、後々トラヴィアの心情なんてぐちぐち描くことになるから、いいよね!って。

 また最後まで書いてから、ぐちぐち語りますね!
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