「process.3」の続き

process.4

 「幸せ」なんて、自分には縁の遠いものだと思っていた。
 トラヴィアは幸せを知らない。知らないと言ったら、喜びも悲しみもねたみもひがみもそしみもしらみも、いやしらみは知っているけれど、同様である。彼女は人間の通常知っている様々な感情を「知らなかった」。
 ただトラヴィアは、地上で長らく旅をした。その中でたくさんのことを学んだ。だからその中で、なんとなくではあったものの、「これはこうこうこういう感情かな」と、推測をしてみることが幾度もあった。
 結果、喜びや悲しみは、自分なりに検討をつけることができた。トラヴィアはしょっちゅう喜んだし悲しんだ。
 「幸せ」については、ずっと疑問に思っていた。
 トラヴィアは人間をずっと見てきた。人間はよく、幸せを感じているらしかった。
 楽しいのと何が違うのか。嬉しいのと何が違うのか。彼女には分からなかった。
 けれども今。
 トラヴィアは、これが「幸せ」かな、と思う。
 したこともないようなことをして、着たこともないような服を着て、決まった時間にベッドに入って朝までぐっすり眠る。
 起きれば決まった顔が絶対にあって、景色は昨日と変わらず、明日も変わらない。けれどもずっと同じではない。
 その暮らしはトラヴィアの記憶をくすぐった。ずっと大切に温めてきた気持ちがつっつかれた。
 そうして生まれたこの気持ちが、「幸せ」なのかな、と思う。
 それならそれでいいなとも、思う。
「今日の夕飯のメニューはなんだろう。ニードに聞いてこなくっちゃ。」
 一人で呟く。自然と笑みがこぼれた。トラヴィアは幸せを感じた。

 ウォルロの宿屋は小さいが、毎日客の出入りはあった。従業員として、彼らと話す機会も自然と出てくる。
 トラヴィアは基本的に自分から口を開こうとはしなかったのだが、それでも話しかけてくる者がいたのだ。
 こんな会話をしたことがある。相手はどうやら旅人のようだった。
 トラヴィアが素性を尋ねられた際に、ウォルロの出身ではないと答えたことから始まった。
「そうか…。俺は冒険者ってやつをやっていてね。出身は遠くなんだ。いろんな土地を旅して、人助けをしたり、魔物を倒したりするんだ。」
「そうですか。」
「ここは良い村だな。落ち着く。こういうところに身を落ち着けるのも悪くはないが、旅は楽しいぞ。」
「そうですね。分かります。」
 自然に出てきた言葉だった。トラヴィアは言ったあとに気がついて、手で口を覆った。
 彼女の内面の変化には気付かずに、男は単に首を傾げる。
「君にも、旅をした経験が?」
「はい。」
 トラヴィアは頷いた。それ以上は何も言わなかった。
 男が話す。
「旅はやめてしまったのか?」
「はい。」
「どうして?」
「…………。」
 トラヴィアは沈黙した。
 しかし沈黙は長くは続かなかった。それで男が何を感じ取ったのかは知らないが、すぐにやり直すように言ったからだ。
「変なことを聞いたな。ごめん。」
「……いいえ。」
 トラヴィアは首を振った。
 このとき彼女がいったい何を考えていたのかというと、実に、何も考えていなかった。
 考えていない。その言葉がふさわしいのかすら、トラヴィアには分からない。それだけ何も考えていない。
 考えたくない、と言えばよかったのかもしれなかった。絶対に触れてはいけない、思考の部分。そんなものが彼女の心の中にはあって、彼女はずっと、そこには触れずに過ごしてきたのだ。
 ずっと。女神の果実を口にして、人間になると決めたときから。
「気にしないでください。」
 客のようすがあまり好ましくないように見えたので、身のないことを言っておく。これはこういうときにはこうしろとニードに教わっていた。
 幸いにも男は、トラヴィアの知っている類の気の遣い方を心得ているようだった。すぐに話が切り替わる。
 それまでの流れとはいっさい関係ない、たとえばこの地域の特産品は何だとか、近くに見るべきものはあるかとか、そういった、およそトラヴィアにとってはどうでもいいことを話した。
 だが、たとえどんなに見事に気を遣われようとも、楔はトラヴィアの胸に突き刺さって残る。ずっと触れてはいけない思考の部分を、引き上げる用意が整ってしまった。
 皮肉にもトラヴィアは、義務感の極端に強い人物だったから、彼女は、もう、それを口にせざるを得なかった。
 たわいのない話を終えて、宿屋手伝いであるトラヴィアが部屋を出るべきときになったとき。
 トラヴィアは言った。
「すみません。あなたは冒険者である、と言いましたね。」
「ああ…、言ったよ。」
 突然の問いかけに男は多少驚いたようだったが、怪訝そうな顔ひとつせずに受け答えてくれた。
「セントシュタインのルイーダの酒場を利用したことは、ありますか。」
 自分で言って、どきん、と胸が嫌な音を立てる。
 男が次に返事をするまで、それは実に短い、会話を続けるに何ら支障のないだけの間であったが、トラヴィアにはまるでそれが悠久のものに思えた。
 男の返事は頷きだった。ゆっくりと首が動いて、彼の顎が縦に軌跡を描く。
「ああ。そこで仲間を募って、パーティを組んで旅をしたこともある。」
「それなら、そこに登録していた、ある3人の冒険者を知りませんか。」
 知っているわけがない。そのことをトラヴィアは知っている。知っていながら説明した。
 気にしているのは、3人の冒険者であること。男の戦士、僧侶と、女の魔法使いであること。それから、名前が外見特徴など。そして、特に戦士は、なかなか旅の仲間が見つからず、かなり長い間酒場に滞在していたことも。
 ほとんど無我夢中でトラヴィアは話した。ここで男が「知らない」と言ってくれれば、トラヴィアの義務感は果たされるし目的は達成される。
 だが男はなんと、「知っている」と、言った。トラヴィアは愕然とした。
 男はこう言った。
「その3人なら、知っているよ。俺たち冒険者の間では、今やちょっとした有名人だ。酒場にずっと、まさに四六時中居座ってて、ほとほと迷惑しているらしい。」
「え……」
 わけが分からなかった。
「待っている人が居るんだとさ。名前はトラヴィアで、」
 そこまで言ったところで、男は何か(その何か、は簡単に察することのできるものだったが)を思い出したように、言葉を止めた。
「…………。」
「女の子の旅人らしいんだけど………まさか、それが、君なのか?」
「違います!」
 反射的にそう言っていた。しかもまだ言葉は続いた。
「違います。私は違います。私が、彼らの待ち人であるはずがありません。」
 男はトラヴィアの突然の態度の変化に閉口した。しばらく考えるような素振りでいて、それが終わったら、言った。
「……分かった。君ではないんだな。」
 男は言葉どおり「分かった」ように頷いていたが、続けてこう口にした。
「彼らは、もしも旅先で『トラヴィア』に会うことがあれば、こう伝えてくれと言っていたよ。『俺たちはルイーダの酒場でずっと待ってるから、さっさと会いに来い。言いたいことがある』って。」
「…………。彼らが、そんなことを?」
「ああ。」
 男は頷いた。まっすぐに『トラヴィア』を見つめていた。
 トラヴィアは、すうっと、頭から血の気が引くのを感じた。短く礼を言ってその場から立ち去った。


「(やはり、怒っているんだ――。私が、あんな失礼な態度をとったから!
 どうしよう。どうすれば、いいのだろう。)」









 やっと話も動きました。何事もなければ次で終わります。
 しかし、どうして、進むにつれてひとかたまりが短くなっていってしまうのか……。なんだか、だんだん飽きているみたいでいやな感じですね。短いこと自体は問題じゃないです。
 次は長くなる、予定!未定!
 蛇足ですが、パーティとトラヴィアのけんかした話も書きたいです。結局あんたらどう言い争ったのよ!

 あああっ、あと、トラヴィアのあほうーーー!!
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