process.5
夜。ベッドの中で考える。
トラヴィアの不安に基づく思考は、最終的にはこんな義務感に収束した。
「(謝らなきゃ……)」
理由はたくさんある。
喧嘩になってごめんなさい。怒ってごめんなさい。何も言わなくてごめんなさい。一緒に戦ってくれた謝礼も払わずに逃げ出してごめんなさい。
そう、全部、トラヴィアが悪いのだ。最初からこうなることなど簡単に予測できたはずなのに、彼らと時間を共有してしまったトラヴィアが。
悪いことをしたら謝らなければならない。それはトラヴィアが弟子として師に教わった最初のことだった。
してはいけないことを、してしまったら、反省して、迷惑をかけた相手に謝る。
「(でも…)」
でも。ここで逆説が出てくる、なぜか。その理由はトラヴィアには分からない。
「(でも、でも)」
何が「でも」なのか。どうして「でも」なのか。トラヴィアにはそれを説明するまともな言葉が思い浮かばない。
それでも止まらない、「でも」。それはどこか、数十年前に感じたもどかしさに似ていた。トラヴィアは苦しかった。
その苦しさを解消してくれる人はどこにもいない。もういなくなってしまった。
「………!」
トラヴィアはぶんぶんと首を振った。そんなこと、考えてはいけないことだ。トラヴィアはここ数日ずっとその点については考えずに過ごしてきたのだ。
そこに触れてしまったら、きっと、今度こそ、トラヴィアは人として生きることに耐えられない。トラヴィアは生きたい。人として目の前にぶら下がる幸せを逃したくない。
だからトラヴィアは、自分を守るために、自分にとって都合の悪いものを無意識的に全部封じ込んできた。
けれども、それも、だめなのだ。トラヴィアは行かねばならない。
するとそこで逆説が止まらない。でも。でも。だけど。
トラヴィアはシーツにくるまって膝を抱えた。からだを追って丸めた。小さくなった。そうしていても何にも変わらなかった。
何かにすがりたかった。そう思ってしまうことはとても愚かなことだとトラヴィアが分かっていたが、その気持ちが止められなかった。
シーツから顔を出す。剣がニードに取り上げられたままだったので、いつものように気を紛らわすこともできなかった。
「(ニード……)」
思い出す、お日様みたいに空によく映えた色の髪の毛の少年のことを。
彼だけは、トラヴィアのことを忘れないでいてくれた。きっと彼はトラヴィアのことなんか、好きではないだろうけれど……トラヴィアは、それでよかった気がした。盲目的な信頼なんていらない。
彼は、ニードだけは、ずっと、トラヴィアのことを見てくれていた。それが、ずっと、守護天使ではなくなったトラヴィアの支えだったのだ。
消灯時間も過ぎた以降の仕事──つまり明日以降も成果の残る仕事──例えば帳簿付けなどをやっていたニードは、すぐ隣の窓に何かがこつんと当たるのを聞いた。
最初は、虫がぶつかってきたのか、と、思わないうちに思って気にしない。けれども二回目の音が鳴った。こつん。最初のものよりも少し大きい。
ニードはそれを変だとは思わなかったが、何となく気にはなったので、窓のほうを見た。直後にすごくびっくりする。あまりにびっくりして椅子ががたんと鳴った。
大きな声が出そうになる。根底まで仕込まれた宿屋マンとしての習性がそれを止めさせる。
「で、で、で、…出た…ッ!」
幽霊が。窓枠の中の夜に少女の姿が浮かび上がる。
「ニード……」
「うるせっ! オレはユーレイなんかに呼ばれる筋合いはねーぞ!?」
空気を多分に含んだ潜め声で叫ぶ。ニードは窓から離れるように身を引いた。すると幽霊が一歩進んだ。
ニードはさらにびっくりする。どきどきする。だがそこで彼はやっと気がついた。声の調子を調えるのも忘れて呟く。
「…トラヴィア……?」
幽霊は、ちょっと焦げてくすんだ色の黒髪をしていた。
まっすぐなそれは肩につかないあたりでばっさりと切られている。耳に向かって長い。そして肌は浅黒い色をしていて、黒い瞳がニードを切に見上げるのだった。
「と、突然訪ねて、ごめんなさい…」
「いーから、入れって! んなユーレイみたいにそこに立たれても困る!」
「うん……」
トラヴィアは窓枠に上って部屋に進入した。そこから降りる際にニードが手を貸すが、体重を感じさせることなく、トラヴィアは身軽に室内の床に降り立った。
「ほら、座れ。んな薄着で立ってて寒かったろ? 今何か、かけるもん持ってくるから…」
「別に、いいよ! 行かないで!」
浮かない顔で俯いていたトラヴィアが、突然声をあげた。ニードは面食らう。
気付くと、先程手を貸したっきり握られっぱなしだった手がさらにぎゅっと握られていた。しかし気付いたのはお互いだったようで、トラヴィアがぱっとそれを離してしまう。
「……行かないで……。私は、あなたが居ればいいから…」
そうは言っても、トラヴィアはそんなふうに悲しそうな顔をしながら、剥き出しの腕をさするのだ。おそらく無意識の行動なのだろうが、だからこそ、それが彼女の身体が冷えきってしまっているということを証明していた。
ニードはしばらく迷った末に、おもむろに、自分のはおっていた上着を脱ぐ。トラヴィアに被せる。
「分かったよ、ここに居る。それ着てろ。」
「ありがとう!」
その「ありがとう」は、はたしてどちらに対してのものなのか、ニードにはさっぱり分からない。けれどもトラヴィアは心底ほっとしているようだったから、別にどちらでもいいかと彼は思ってしまった。
気を取り直して本題に入る。
「で、どうしたんだよ。こんな夜中に、突然…」
「…………剣を。」
蚊の鳴くような声でトラヴィアが囁く。聞こえないので聞き返す。
「あ?」
「剣を、返してほしくて。私の剣。あなたが持っていった、私の武器。」
「剣って……」
確かに、トラヴィアの剣ならニードが持っている。ずっと手元に置いてある。そもそもこの部屋──ニードが寝泊まりしている部屋──に、今、ある。
ニードはつつつと視線を滑らせた。それに合わせて上半身だけ振り返る。そしてちょうど自分が立っている位置の真後ろにそれがあるのを確認してほっと安心した。
トラヴィアに強行手段に出られたら、ニードは絶対に敵わない自信があった。だけどもトラヴィアは、ニードの思う限りでは、ニード本人に暴力を振るったりはしないはずだ。だから剣が彼を挟んでトラヴィアと対称な位置にある限り、それは、安全だ。
ニードは言った。なるべく強気な態度で。
いったいトラヴィアに何があって気が変わったのかは知れないが、現在の調子が保たれる限り、きっとニードは勝つことができる。その自信も彼は持っていた。
「返してもらって、それからどうするつもりだよ。今のおまえには必要ないだろ?」
「…………気持ちを落ち着かせたくて。」
「剣で?」
トラヴィアは頷いた。続けて言う。剣を長いこと握っていないから、落ち着かないのだと。確かに、ずっと剣を手に旅してきたトラヴィアになら、そんなこともあるかもしれない。
「何も、剣じゃなくてもいいだろ。他のことをしてみればいい。あったかいミルクでも飲むか? いれて来てやろうか?」
「…………。」
トラヴィアはしばらくは黙り込んだ。だがそのあとで、いったいどんな思考を経たのか、こう言った。
「……やだ。行かないで、ニード。」
トラヴィアの目が、切なげに、ニードを見つめる。ニードの心の中で何かがちょっとだけ崩れた。
それでもまだ、何とかして気持ちを強く持つ。
「分かったよ。でも、剣は返さないからな。おまえはずっとここに居るんだから。」
「ずっと、ここに居る?」
「ああ。おまえは、ウォルロ村は嫌いか?」
「嫌いじゃない。大好きだよ。ここで暮らすのは、楽しかった。」
まるで自分が誘導尋問に成功しでもしたような気になって、ニードは心の中でやったと叫んで拳を握った。悪くない方向に運べている。
「だったらここに居ればいいじゃねーか。村の奴らだって、前ほどおまえを悪く言ったりはしないだろ。舎弟だっているし、オレの妹ともまた遊んでやってくれよ。」
「で、でも……」
話しているうちに、ニードは、何だか自分の調子が乗ってくるのを感じた。自分を強く保とうとする意識が薄れても、声の調子は変わらない。
まるで、教師が生徒に言い聞かせるかのように。ニードは言った。
「でも、じゃない。いいか、トラヴィア。これからはもう、危ない目に遭わなくてもいいし、悲しい思いもしなくていい。そんな必要はないんだ。ちょっと前までみたいに、静かなこの村で静かに暮らすんだ。そのほうがおまえのためになる。オレの言うとおりにしろ。」
ニードはうまいこと言ったと思った。が、しかし、ここでいきなりトラヴィアの様子が豹変した。しまった調子に乗りすぎた、と途端に態度を裏返しかけるがもう遅い。
ずっと「でも」を口の中で転がしていた少女の瞳に力が戻り、きっ、とニードを見据える。
「だけど、私は行かなければならないの!」
「……ト、トラヴィア…」
「ずっと、ここで、こんなことしているわけにはいかない。確かにここでの生活はすばらしいものだった。一生ここに居れば私は絶対に幸せになれる。でも、私は行かなければならない。私は幸せになってはいけないの!
だから、剣を返して、ニード。それは私の武器。」
「…………。」
勝手に手が動いて、剣をトラヴィアに返していた。ニードは動作が済んでからそのことに気付いてはっとする。
「……私の剣……。ありがとう、ニード。手入れしていてくれたのね。」
白く輝く刀身を確かめ、トラヴィアは嬉しそうにほほえんだ。鞘に戻す。
ニードはぐっと口をつぐんでその様子を見守っていた。やがて、やっと、口を開いた。トラヴィアが剣からニードに注意を戻して、また悲しそうな顔になって何かを言おうとしたときだった。
「……それで、おまえは、ここを出てどこに行くつもりだよ。」
「……!」
せめてもの反撃だった。言いながらそんな自分に嫌悪する。けれども止められない。
「また、旅をするのか? あんなにつらい目にあって、これからもあうかもしれないのに、また悲しい思いをするかもしれないのに……。それでもおまえは行くって言うのかよ!」
「…………。」
「おまえは、バカなんだよ。会ったこともないヤツを助けに行くために、一人で危険な遺跡に行ったり。オレなんかの言葉に騙されて、とうげの道までついて来たり。故郷のヤツらに利用されてるだけなのに、言われるままに、世界中を回って。大切なヤツだって死んじまって悲しいはずなのに、それでも一人で戦って……。バカだよ、おまえは……」
違う、言いたいのはこんなことなんかではない。傷つくことが分かっていても、それでも行くとしかただ言えないトラヴィアを、余計なことを言ってさらに傷つけたいわけがない。
本来だったら、ここでかっこよく笑って、おまえがそう言うなら止められないな、とか言って、見送ってやるのがかっこいい男ってものなのだ。それなのに逆にトラヴィアを傷つけることしかできない。ニードはだめな男だ。かっこわるい。
けれどもトラヴィアは強い少女だった。今にも泣きそうな顔だというのに、強く、確かに、頷いたのだった。
「……旅を、します。何をするのか、何をすべきなのか、まだ、分からないけれど……。私の居るべきところは、ここではない。そんな気が、するの。
私のしなければならないことを、私はこれから探そうと思います。
──それにね、ニード。」
ここで、トラヴィアはふわりと笑った。初めて見る笑い方だった。ニードはこんなときだというのにどきりとしてしまう。
「旅は、つらかったけれど、それだけではなかったよ。楽しいこともたくさんあった。いろんな人に会うことができた。
1日の冒険を終えて、ここに戻ってきてあなたに会うというそのときだって、私にとってすごく大切なことなんだよ。」
「…………。」
しかしすぐに笑みは消える。トラヴィアは続ける。
「私は私を、ばかだと思う。すごく、愚かだと思う。だけど、だからこそ、私はただ安穏と幸せをかみしめてはならなくて、行かねばならない。」
行かねばならない。明確な目的地到達点のないはずの言葉は、それなのに、とても強かった。ニードには何も言うことができなかった。
トラヴィアの心は強すぎて、ニードなんかでは傷つけることすらできなかった。
トラヴィアは剣を手に立っていた。その場でしばらく何かを言おうとして止めるということを何度か繰り返した(ように見えた)後──結局黙って身体の向きを変えた。
今度はきちんと部屋の扉から退室するのだろう。扉へ歩む。
沈黙の中でその時間はとても長く感じられた。
ニードがやはり何も言えないでいると、扉の前で立ち止まってトラヴィアが不意に振り向いた。ふと思い出したように言う。
「ごめんなさい、上着を持っていくところでした。」
言って、すぐに脱ごうとする。ニードはそれを、何かよく分からない気持ちに突き動かされて止めた。
「いいよ、そのまま行け。でもそれはオレのだから、また、返しに来い。いつでもオレは待ってるから。」
言いながら、ニードは、こんな自分をすごくみっともないと思う。
けれどもトラヴィアは、ニードの言葉を聞いて、驚いたあとに嬉しそうに笑った。そしてその後で、ニードの表情を見て、笑みを消した。
「……あの、ニード。」
「いいよ、何も言うな。」
「でも……」
「うるせーな! 結局おまえは行っちまうんだから、何言われたって一緒だよ。あー、もう、すげーカッコわりい……」
もうほとんどヤケクソになって言ってしまう。自分で明言してしまったらいよいよかっこわるい。どんどん加速するかっこわるさは止まらない。
「カッコわるいついでに言うけど、トラヴィア。目的地が決まってないんだったら、まずセントシュタインに行け。」
ちなみにニードは、宿を訪れる客の話から、現在セントシュタインのルイーダの酒場がどのようなことになっているのかを知っていた。
「え、でも……」
「いいから。せめてこれくらいはオレの言うこと聞いてけよ。どっちみち行くアテねーんだろうが、おまえ。最初の目的地にしたって悪くないだろ。」
「…………。」
「いいか、セントシュタインだぞ。ルイーダの酒場に行くんだ。」
ルイーダの酒場。その単語を出した瞬間はトラヴィアの表情が険しくなった。
「おまえの仲間がそこにいるから、会ってけ。」
「…………。」
「返事!」
「は、はいっ!」
トラヴィアの返事は出だしこそ詰まったが、はっきりとした明るいものだった。ニードはその点に関してのみ満足感を覚えてしまう。
そんな自分を隠すかのように、ニードはあえてぶっきらぼうに言う。ちょっと前まではいつもトラヴィアに向けていたような態度だ。思えばニードは本来は彼女に対してはいつもこうで、ここのところの優しい態度のほうがおかしいくらいだったのだ。ニードはやっと思い出した。
「よーし、じゃあさっさと行け。どこへでも行っちまえ。」
「………うん。」
思い悩むようにしていたトラヴィアも、それなりには覚悟を決めたようだった。強くはないが頷く。そしてやっと、目の前の扉に手をかけた。
しかしすぐにはそれは開かない。しばらくその体勢で固まって、トラヴィアはふと口を開いた。まるでどこか、自分に向けて話しかけるように。
「……私は、ばかだよね。でも、こんな私だったからこそ、あなたに会って話をすることができるようになったんだと思うの。
あなたが私を村の外へ連れ出したことが、もしも本当に、私を騙しただけだったと言うのなら……。私を騙してくれて、ありがとう、ニード。」
最後の言葉は確かにニードに向けられたものだった。結局お礼を言わせてしまった。
もちろんニードはそれについて言及しようとしたが、それよりも先にトラヴィアは部屋を出て行ってしまった。きっと彼女が次にここを訪れるのは、ニードに上着を返しに来るときだろう。
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ただ、ニードは、トラヴィアを抱きしめてやれなかったことを悔いた。
あの、狭い肩を引き寄せて、か弱い小柄な身体をぎゅっと抱きしめてやりたかった。
それができるチャンスは、ずっと転がっていたはずなのだ。トラヴィアが迷っていたとき、悲痛な表情を見せたとき、背中を向けたとき、歩きだそうとしたとき。
けれども、確かにトラヴィアはニードのところへやって来たけれど、ニードはこんなふうに思うのだ。誰よりも、トラヴィア自身が、ニードを拒絶している。
彼女はニードの──大ざっぱに言えば、男性の──腕に収まることを拒んでいるようにしか思えなかった。
「…………。」
ニードは自分の手を見る。剣も久しく握っていない、水仕事ばかりやっていて荒れてきた、けれども仮にも男の手だ。たぶん、トラヴィアのものよりは大きいだろう。
「(ちえっ。またいつもと同じかよ。)」
でももうニードはこんなことには慣れている。それにもうトラヴィアのことは心配ではなかった。またそのうち彼女がここを訪れるのを──できたら仲間も一緒に──待つことにしよう。
それまでに、剣の稽古でもしてみようか。きっとずっとトラヴィアみたいに強くはなれないだろうけれど、せめて彼女を腕の中に閉じこめることくらいはできるようになればいい。
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